Unseen / Unfixed
Bangkok
バンコクはいつも誰かが動いている。
屋台の準備をする人、道を横切る人、どこかへ急ぐ人。
都市は休止することなく、ただ状態を変え続けているだけのようだ。
人の気配が濃い街だと思う。
もし都市を一つの生命、有機体と見なすなら、彼らの動きはその循環の一部なのだろう。
血流のように、意志とは無関係に、しかし確実に流れている。
それと同時にこの街は、観光客という常に別の視点から観察されている。
視線は途切れることがなく、人の振る舞いや身体は、簡単にイメージへと変換される。
写真や映像の中で、それらは明瞭な形を与えられ、固定されたものとして消費されていく。
けれど、実際に生活する人間は、そんなふうに単純ではないだろう。
体験や記憶は写真のように断続的な出来事の集合にすぎないかもしれない。
ただ、それらは後から繋ぎ合わせて、一本の流れのようになる。
街に出て、カメラを構える。
人の動きに合わせて動かすと、身体は輪郭を失い、時間の中で引き伸ばされる。
ある部分は鋭く残り、別の部分は溶けるように消える。
背景は流れ静止し、あるいは別の速度で動き、二つの時間が同じ画面の中で干渉する。
そこに現れるのは、連続した人間ではない。
分解された断片だ。写真に写るのは、あくまでも一瞬であり、すでに過ぎ去った結果にすぎない。
しかし、その断片の背後には、見えない時間が連なっているはずだ。どこから来て、どこへ向かうのか。
その過去と未来を含めて、人は動いている。
それでも、像は断ち切られる。
連続は写らない。
不思議なことに、人はそこに動きを感じる。
崩れた輪郭の中に、なお身体を見出し、時間の流れを想像する。
断片から連続を補い、存在を成立させてしまう。
見えていないものの方が、多いのかもしれない。
この方法は、記録のためではない。
むしろ、見えすぎているものから距離を取るためのものだ。
明瞭な像は理解を与えるようでいて、同時に思考を止めてしまう。
だから、その輪郭をわずかに崩す。そうすると、別のものが現れる。
はっきりとは見えないが、確かにそこにある何か。
時間なのか、関係なのか、それとも単なる錯覚なのかは分からない。
写真が写しているのは、対象そのものではないのだろう。
そこにあるはずのものと、写らないものとのあいだにある、わずかなずれ。
街を歩きながら、動いている人を追う。
ファインダーの中で、身体は何度も分解され、繋ぎ直される。
そのたびに、同じ人物であるはずの像が、少しずつ違って見える。
結局のところ、見えているものだけで何かを理解することはできないのだと思う。
見えない時間を前提にして、ようやく意味が生まれる。
だとすれば、ここに写っているものは何なのだろうか。
人なのか。
それとも、時間の痕跡なのか。
あるいは、そのどちらでもない何か、かもしれない。