【 流転する子鹿は弧を描く 】
山深く、急流が谷を刻む土地。崩れゆくものと生まれるものが、絶え間なく混ざり合い移り変わっていく。長野県鹿塩地区。この地には、山の中にもかかわらず塩を含んだ湧水がある。この特異な水脈に惹かれ訪れた私はやがて、この土地の時間の流れに引き込まれた。
朽ち果てた橋、埋もれた建物、鹿が闊歩する川辺。土砂崩れや川の氾濫は地形を変え、それに抗うように人の手が加えられ続ける。新たな砂防が築かれ、真新しいテトラポットが川辺に並ぶ。そして、それらもまた自然と同化し、やがて崩れ、朽ち、回収されていく。人工と自然の境界はすぐに曖昧になり、抗うことと同化することが一つの営みとして繋がっている。
その循環は、単なる繰り返しではない。時間は円環のようで、わずかにずれて進む螺旋のように感じる。同じ場所を巡るようでいて、わずかに異なる形へと変容していく。進化も退化もし、広がるようで収縮もする。自然の破壊と再生のサイクル、それは対立ではなく、ひとつの流れの両側面として続いているのだ。私はそこに、回帰しながらも決して元に戻らない時間のリズムを見た。
この記憶を留めるために、私はソルトプリントを選んだ。鹿塩の塩の湧水は、海水に近い塩分濃度を持ち、調整せずそのまま使える。この水を紙に沁み込ませ、銀と反応させることで像が結ばれる。土地で生まれた水が作品に刻まれるとき、風景とプリントはひとつに繋がる。そしてまた、像は完成した瞬間から変化を始めている。やがて退色し、コントラストが薄れ、記録としての形を変えていくかもしれない。その移ろいは時間の流れの可視化であり、記憶と忘却の間に現れる残像だ。
この地で見た流れは、作品そのものの在り方とも重なっている。存在とは形を変え続いていく。土地も人も、本作品も、流転する螺旋の中にある。